考える「場」としてのインターネット

投稿者: | 2015年2月15日

情報を取得するためのインターネット、発信するためのインターネット。
それらが成熟したらそこは考える場となる。

「考えている」途中の一部分だけを抽出して結論だととらえるから
「インターネットの意見は偏っている」と非難されているんじゃないかな。

情報を得る立場からしたらそれも真実なのだけれど、
考える場としてとらえられるようになれば、途中経過で判断するほうが間違っていると
そういうことになるんじゃないかな。

インターネットは常に進行形のメディアなのだから。
そこにあるモノは完成形ではなく、変わっていく途中のひとつの姿だよね。

ネットに書かれているコトが、発信者の不変的な主張ってわけじゃないんだ。

ブログに書かれているコトだとしても、それはその人にとって結論ではなく、
「考える過程」で得たひとつの途中経過であり、
例えるならば会議中の発言のひとつに過ぎないのに。

それを会議の最終結論であるかのようにとらえているのかもね。

インターネットは議論の場であり、常に更新され続けているんだよね。

ネットとリアル、という言い方は好きじゃないけれど
便宜上その言葉を使っていうと、
ネットもリアルもその利用者の層も像もそれほど差が無くなっている。

ネット利用が一般化して、昔のようなコアな層が使うツールではない。

普通の主婦もサラリーマンも公務員も、
子供もシニア世代もみんな使っている。

一昔前に「パソコンが趣味」といいながら
「ネットサーフィン」していたおじいちゃんたちとは違い、
いまのシニア世代はインターネットがどんなモノかちゃんと理解して、
そこで自分の意見を表明している。

このような利用状況を考慮すれば
「ネットの意見は偏っている」なんて言う人こそ、
一部の意見を総意だと勘違いして偏った批判をしているように思える。

「ネット世論は現実の世論に近い」少なくとも、
「近くなる方向に向かっている」とは言えるよね。

「現実の世論」に近づいているネットの意見を
「ズレている」なんて言ってしまうのは少しずつ世論からズレて行っているのじゃないか。

標準からはずれた意見を持っている人が存在することは貴重なことだよね。

それが大事なことなのは、現実でもネットでも同じことだ。
政治に関わる人たちにとって、この認識のズレはとても危険なことなんじゃないかな。

世論に関して敏感にならなければいけない人たちが、
「インターネット」をいまだに一方的な情報発信と取得の場としてとらえているのは時代遅れだ。
これからの「議論の場」であり、24時間365日動いている会議みたいなものだよね。

実名で、現実世界の責任とリンクしていることを
しっかりと意識して発言してくれる人たちが現れ、
そういう人の出現がひとつのキッカケとなって無責任な放言の場が議論の場になった。
「なった」という言葉が強すぎるならば、「なろうとしている」でも良い。

多種多様な人がいて、誰もが気軽に発言できるというメリットがあるから、
副作用として過激な意見もある。

けれど、いままで言いにくい問題だから我慢してきたことも
本当は話し合わなければならない。

インターネットを、こういう「考える場」として捉えた時に
「慎重に発言しなさい!」なんていっていたら
面白い意見や革新的な解決策は出てこないし、活気もなくなるよね。

いろんな意見がでて、大いに議論して、
おかしな意見には「それは違うよ!」という意見が出てくる。

僕らはそんな風に変わっていっている。